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「一切衆生の救われる道でなければ、自分は救われない」金子大榮 法語 仏教福祉 福祉仏教

真宗教団連合カレンダー2026年2月号 法語 「悲」こそ仏教福祉の精神


 この言葉は、「みんなが救われてほしい」「みんなを救いたい」という理想を語ったものではありません。むしろ、自分自身を深く見つめたときにこぼれ出る、切実な心の声です。

 私たちは日々、怒り、妬み、比べ、思い通りにならない現実に心を乱しています。分かっていながらやめられない。正しくありたいと思いながら、正しくなれない。むしろ自分こそ正しいと思いがちです。そのような自分の姿に気づくとき、私は私を悲しまずにいられません。

 この「私を悲しむこころ」とは、自分を責めることではありません。卑下することでもありません。もちろん他を責めることでもありません。そうではなく、どうしようもない自分のありのままに気づかされることです。そこに立つとき、「私」は思うのです。

 ――こんな私が、はたして救われるだろうか。

 もし救いが、善い人のためのものであれば。努力できた人のためのものであれば。正しく信じられた人のためのものであれば。「私」はきっと、その外に立っています。

 だからこそ、「一切衆生の救われる道でなければ、自分は救われない」という言葉が、「私」の身に迫って響いてくるのです。

 「一切衆生」とは、立派な人も、弱い人も、迷い続ける人も、善人も悪人も、すべてを含みます。条件をつけず、区別せず、誰一人もれなく抱きとる道でなければ、「私」のような者は救いからこぼれ落ちてしまうのです。

 自分ひとりが助かればよい、という道ではありません。むしろ、自分を深く悲しむとき、「私だけが救われる道などあり得ない」と知らされます。なぜなら、「私」の中にはあらゆる人間の姿があるからです。怒る人を責めきれず、妬む人を裁けず、弱い人を見下せない「私」がいるのです。

 その「私」が救われる道とは、すべての人がともに抱かれている道でなければなりません。

 この法語は、「私」に問いかけます。 「あなたは、本当に自分を知っていますか」と。

 「私」を悲しむこころの底から、「一切衆生の救われる道」を願わずにいられない――そこにこそ、この言葉の深い味わいがあるのではないでしょうか。

 今日もまた、この身のままに、その大きなはたらきに遇わせていただいていることを、静かに味わいたいと思います。


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