通順寺の歴史と歩み
Since 1535
通順寺は、1535年(天文4年)、奥州伊達家からの開基である祐誓によって創建されたと伝えられています。戦国の時代、遠く東北の地からこの尾張の地にご縁を結び、阿弥陀さまのお念仏の教えを伝える道場として歩みを始めました。
江戸時代に入ると、寺は地域の人びとの信仰の拠りどころとして整えられていきました。現在の本堂は1639年(寛永16年)に建立されたもので、道場形式の古い建築様式を今に伝える大変貴重な建物です。柱や梁は、当時のまま残されています。
その後、明治・大正・昭和と時代が移り変わるなかでも寺は守られてきました。とりわけ明治二十四年の濃尾地震では多くの建物が倒壊しましたが、本堂はその災害にも耐え、今日まで受け継がれています。
通順寺はお彼岸やお盆、報恩講をはじめとする仏教行事を続けてきました。戦後は地域の復興とともに、法要だけでなく、子ども会や文化活動など、地域に開かれたお寺として少しずつ形を変えながら歩みを進めています。
近年では、本堂での音楽会や絵本セラピー、写経の会など、新しい試みも行いながら、歴史ある伽藍を守りつつ、今を生きる人びとの心に寄り添うお寺でありたいと願っています。
愛知工業大学 岡野先生による本堂現状図
現在の本堂


現状図・復原図ともに愛知工業大学 岡野清先生による
ここで岡野先生の論文が読めます。論文中現存するのは当寺と同じ祖父江町内では即願寺のみです。
本堂復原図
本法院義譲
ほんぽういん ぎじょう
当寺12世恵澄の遺弟 本法院義譲師は、大谷派講師となり名声高く、三河源徳寺(吉良の仁吉の墓があることで有名)に住した。諏訪義譲著 『尾張先学者考 』に「講師は純粋な学階でなく一宗一人の学職であって、宗主より親しく任命され、学僧として栄誉この上もなかった」と記している。源徳寺には京都から三河まで乗って帰ったという輿が残っていて、当時の地位の高さがうかがえる。
義譲師から18世道仙宛ての手紙(本法院義議の書翰集壱巻)が当寺に残されている。


【学業】
『大谷派先輩著述目録』
1 二種深信講義、二(刊)
2 往生礼讃乙卯録、三(真宗全書)
3 選択集講義、三
4 歩船鈔甲辰録、二(真宗大系)
5 助給続不続論、一
6 改邪鈔丙午録、二(真宗大系)
7 往生礼讃考、二
8 御文大網、一
9 信行両一念記、一
10 諸神本懐集講義、三(真宗全書)
11 諸神本懐集 引拠、二
12 三部経異本校訂捷覧、一(刊)
13 八宗綱要講義、三
14 通俗三世因果実験録、七(刊)
15 倶舎論記、七
16 七十五法聞響記、一
17 高僧和讃記、五
18 神明三ヶ条御文記、一
以下『続大谷派先輩著述目録』
19 往生礼讃聞記、一二
20 観経玄義分聞記、一〇
21 諸神本懐集聴記
23 成唯識論講説
24 浄土論聞書、六
25 真宗示諭録(刊)
26 能登頓成再往教諭書、六
27 二種深信略録、四
28 二種深信正因弁
29 八宗綱要聞記、二
30 八宗綱要講義、八
31 歩船鈔講義、四
32 無量寿経五悪段記
【遺弟】
『大谷先輩学系略』
探励-徳龍
-霊曜--義門
-秀存 -義譲--晃曜(三河。因明院講師)
-潜龍(美濃。冷香院講師)
-了慧(信濃。即得院嗣講)
他に
円純(飛騨。昨夢院。講師)
黙慧(加賀。瑞応院。嗣講)
浩然(三河。染香院。贈嗣講)
慧鎧(三河。宣忠院。贈嗣講)
三応(美濃。香覚院。擬講)
智学(能登。照明寺。擬講)
周観(三河。深楽庵。贈擬講)
『遊僊窟入社隷名録』 (本法院の社中名簿 遺弟周観師が自坊三河の藤川伝誓寺に伝える)
三河 112名
尾張 34名
越後 22名
美濃 16名
能登 12名
大阪 9名
出羽 9名
遠江 7名
近江 7名
播磨 7名
伊勢 6名
越前 6名
越中 5名
江戸 5名
奥州 4名
加賀 4名
摂津 3名
洛陽 3名
常陸 3名
伊豆 2名
丹波 2名
筑後 2名
飛騨 2名
豊後 2名
肥後 1名
若狭 1名
佐渡 1名
松前 1名
参考文献 諏訪義譲著「尾張先学者考」文光堂